東京人の広島カープ応援奮闘記

東京人です。広島を好きになったのは、1986年の日本シリーズ、第1戦引き分けの後広島3連勝、後4連敗で敗戦したあの時です。家族は西武デパートが安売りをするので西武を応援していました。子供だった僕は「赤い方かわいそうじゃん」と思い、心の中で一人カープを応援していました。が、3連勝の後、4連敗。野球に興味のなかった子供でしたが、初めて真剣に見た野球で、怖さと魅力を覚えました。それ以後、野球の大ファンになりました。子供心に、カープが日本一になるまでカープを応援すると決めました。まだ日本一になっていません。もう一生カープファンです。 2連覇しました。僕の目標は広島黄金時代の到来です。毎年優勝争いに絡んで、そして優勝して、日本一になる。 東京人ですが、広島の試合はradikoで毎試合欠かさず聴いてます。テレビ中継があるときはもちろん見るし、毎年10試合近くはチケットを購入し観戦に行きます。 東京人の熱烈広島ファンの奮闘を辿るブログです。

2006年の黒田氏のスタートは、背番号に合わせ1月5日
例年より早いスタートは第1回WBCに標準を合わせていたからだった

また監督が外国人のブラウン監督に代わり、
エースに求められるものが大きく変わった年でもあった

「1試合を投げ切る」よりも「1試合でも多くの試合を投げる」
それがエースに対するブラウン監督の要望である
常に先発完投を目指して投げてきた黒田氏にとって、
大きな転機だった

この指導から1週間後、
黒田氏は横浜の「足と歩きの研究所」と言う施設を訪れている
1年で微妙に変化する体型とフォームにぴったり合うスパイクを作るためにここに来た
新たな試みにチャレンジする貪欲な姿勢はこの年も健在だった

例年より10日以上早い仕上がりを目指すこの年、
順調とは言えない調整を続けて何とか形になってきた頃、
福岡ドームで行われた
WBC日本代表と12球団選抜の試合で、
黒田氏は打球を右手に直撃してしまう
黒田氏は日本代表を辞退する

「カープで任されている責任のほうが大きいと思った」

代表離脱と言うアクシデントも乗り越える黒田氏
4年連続開幕投手が決まっていた

「不安でいっぱいですよ。
バットに当たらないボールが投げれれば、
自信はあると思いますけど、
そんなことはあり得ないので」

開幕し、
ブラウン監督の中4日、球数100球と言うスタイルがとられても、
黒田氏は6月までも16登板で4試合の完投を見せる
100球と制限があっても、その制限の中でマウンドに立ち続ける
山本前監督から叩き込まれた
「エースの哲学」
は何ら変わっていなかった

著者の広島テレビアナウンサー森拓磨氏は、
この頃まだ2軍の試合のアナウスをしてテストしている頃
実践を重ねて初めての1軍での試合の実況を、
憧れの黒田氏の登板で迎えると言う運命に出くわす

この試合も黒田氏の好投で勝利する

この試合の実況を見事やりとげた森拓磨氏は、
今まで味わったことのない充実感に満たされる

そして黒田氏との食事に誘われる
「二桁10勝目おめでとうございます。」
と言うと黒田氏は
「おう、お前初実況やったらしいな。お疲れ」
と返したと言う

翌日
倉捕手が近づいてきて
「おいモリタク、これ黒田さんから預かったんやけど」
と言ってボールを差し出す。公式戦のボールだ。
ぐるっとボールを見回すと、黒田氏のサインが。
さらに
「2006・8・3 対ヤクルト」
の文字がある。

「ウイニングボールやて。ちゃんと渡したで」

前日の試合でも女房役としてマスクをかぶっていた倉選手は、
ニコニコ笑いながらロッカーへと下がっていった

FAの動向が気になっていた菊池ですが、

とりあえず国内FAはしない事になりました。

広島に育ててもらった菊池が、

国内で他のチームに行ったら非常に残念だったので、

とりあえず安心しました。

ただポスティングでメジャーに行く可能性は残されています

僕的には菊池の守備をメジャーで見たい気持ちもある

皆様はどう思いますか?

2005年のシーズンに向けた準備は、
2004年の開幕戦で5点のリードを守れなかった時から始まったと言う

黒田氏は自ら電話した
「広島東洋カープの黒田博樹です。雑誌を見て電話しました」

電話した先は東京にある「上達屋」
主に動作解析でスポーツ選手の技能を向上させる施設である。
黒田氏の依頼は
「球持ちを長くしたい」
そらからあらゆる試合の映像を送り、
ピッチングフォームを徹底的に解析してもらった

2004年のシーズンが終わると、
定期的に上達屋のトレーニング施設に通い、
理想的な骨盤の動きを体に覚え込ませるトレーニングを積んだ

メジャーでローテを守れたのも
カープ復帰後41歳まで先発で投げれたのも
解説者が「理にかなった無理のないフォーム」と絶賛するこのフォームのおかげで、
その基本形はこの頃出来上がったのだと思う

徹底的に自分を研ぎ澄まし、
妥協の無い野球人生を送った黒田氏

その黒田氏がテレビ解説者である著者とのやり取りでこんな事があった
その頃若手だった著者は、
黒田氏に先輩に連れられ関係がスタートした時点だった
「おもろいやつ」
と認識され交流が始まったころだ
食事をしている時選手のプロフィールの話になった
出身地や球歴など、
選手名鑑に乗っているような基本情報だ
黒田氏はこういった情報にめっぽう詳しい
「誰と誰が大学の先輩後輩とか、高校で誰と誰が対戦しているとか、そこにもドラマがあるからな」
こういった情報も伝える上では大事な事だと黒田氏は言っていた
そしてこの時は食事の席で、そのプロフィールがクイズになった
どんどんと答えていき、
その後選手の出題範囲がパ・リーグに広がった
すると著者が答えられる確率が圧倒的に低くなった
その時著者は言い訳する
「いや、これパ・リーグの選手ですし」
この言い訳に黒田氏が反応する
「お前、交流戦でしゃべらんの?日本シリーズもあるやんか」
黒田氏は場の空気を悪くしないように優しい表情のままだ。しかし目が真剣なのは明らかだった。
「俺はこれで腕がちぎれてもいいと思って毎試合マウンドに立っている。お前はどれくらいの気持ちで放送席に向かってんの?」

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