2006年の黒田氏のスタートは、背番号に合わせ1月5日
例年より早いスタートは第1回WBCに標準を合わせていたからだった

また監督が外国人のブラウン監督に代わり、
エースに求められるものが大きく変わった年でもあった

「1試合を投げ切る」よりも「1試合でも多くの試合を投げる」
それがエースに対するブラウン監督の要望である
常に先発完投を目指して投げてきた黒田氏にとって、
大きな転機だった

この指導から1週間後、
黒田氏は横浜の「足と歩きの研究所」と言う施設を訪れている
1年で微妙に変化する体型とフォームにぴったり合うスパイクを作るためにここに来た
新たな試みにチャレンジする貪欲な姿勢はこの年も健在だった

例年より10日以上早い仕上がりを目指すこの年、
順調とは言えない調整を続けて何とか形になってきた頃、
福岡ドームで行われた
WBC日本代表と12球団選抜の試合で、
黒田氏は打球を右手に直撃してしまう
黒田氏は日本代表を辞退する

「カープで任されている責任のほうが大きいと思った」

代表離脱と言うアクシデントも乗り越える黒田氏
4年連続開幕投手が決まっていた

「不安でいっぱいですよ。
バットに当たらないボールが投げれれば、
自信はあると思いますけど、
そんなことはあり得ないので」

開幕し、
ブラウン監督の中4日、球数100球と言うスタイルがとられても、
黒田氏は6月までも16登板で4試合の完投を見せる
100球と制限があっても、その制限の中でマウンドに立ち続ける
山本前監督から叩き込まれた
「エースの哲学」
は何ら変わっていなかった

著者の広島テレビアナウンサー森拓磨氏は、
この頃まだ2軍の試合のアナウスをしてテストしている頃
実践を重ねて初めての1軍での試合の実況を、
憧れの黒田氏の登板で迎えると言う運命に出くわす

この試合も黒田氏の好投で勝利する

この試合の実況を見事やりとげた森拓磨氏は、
今まで味わったことのない充実感に満たされる

そして黒田氏との食事に誘われる
「二桁10勝目おめでとうございます。」
と言うと黒田氏は
「おう、お前初実況やったらしいな。お疲れ」
と返したと言う

翌日
倉捕手が近づいてきて
「おいモリタク、これ黒田さんから預かったんやけど」
と言ってボールを差し出す。公式戦のボールだ。
ぐるっとボールを見回すと、黒田氏のサインが。
さらに
「2006・8・3 対ヤクルト」
の文字がある。

「ウイニングボールやて。ちゃんと渡したで」

前日の試合でも女房役としてマスクをかぶっていた倉選手は、
ニコニコ笑いながらロッカーへと下がっていった