東京人の広島カープ応援奮闘記

東京人です。広島を好きになったのは、1986年の日本シリーズ、第1戦引き分けの後広島3連勝、後4連敗で敗戦したあの時です。家族は西武デパートが安売りをするので西武を応援していました。子供だった僕は「赤い方かわいそうじゃん」と思い、心の中で一人カープを応援していました。が、3連勝の後、4連敗。野球に興味のなかった子供でしたが、初めて真剣に見た野球で、怖さと魅力を覚えました。それ以後、野球の大ファンになりました。子供心に、カープが日本一になるまでカープを応援すると決めました。まだ日本一になっていません。もう一生カープファンです。 2連覇しました。僕の目標は広島黄金時代の到来です。毎年優勝争いに絡んで、そして優勝して、日本一になる。 東京人ですが、広島の試合はradikoで毎試合欠かさず聴いてます。テレビ中継があるときはもちろん見るし、毎年10試合近くはチケットを購入し観戦に行きます。 東京人の熱烈広島ファンの奮闘を辿るブログです。

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2015年2月16日午後一時
毎年カープが新人入団会見を行っているホテルの会場に、
黒田さんが颯爽と姿を現す。

「今までの野球人生の中で一番多い報道陣に戸惑っています」

地元広島の地上波で5局しかいないにもかかわらず、この日のカメラは約30台
この会見に先立ち、黒田さんが広島空港に到着した際のファンの大歓迎も、
全国ニュースのトップに扱われるほどだった。

「これでよかったかと思うこともあったが、
広島のファンを見て、
やはりこの決断でよかったという気持ちです」

「残り少ない野球人生において、カープのユニフォームで投げる一球のほうが、
重みを感じられるのではないか」

男気の溢れる言葉だと思います。

メジャーで79勝、
ドジャースとヤンキースで5年連続二桁勝利、
メジャー球団のオファーを蹴って帰ってきた
現役バリバリのメジャーリーガー

しかし黒田氏には実績による余裕などなかった
フィーバーにファンや報道陣が騒動を起こしても、
黒田氏は確実に準備を進めていく

復帰初登板で勝利し黒田氏はヒーローインタビューで、

「広島のマウンドは最高でした」

4月25日阪神戦

マウンドは阪神藤浪

黒田氏は送りバントの場面で3球連続体の近くを通る

3球目を避けた後、

黒田氏はバットを持ったままマウンドの藤浪投手に1歩2歩と進む

試合後

「お互い勝ちたいと思っている中、チームの士気のためにも僕がヘラヘラしているわけにはいかない。そうやって投げるのはもちろん理解できるが、戦う姿勢を持たないといけない」

「グラウンドで起こったことなので引きずることではない。いい素材のピッチャーだからこそ」

馴れ合いをしない、この黒田氏の姿勢も、魅力の一つです。

黒田氏は周りには見せないようにしていたが、

満身創痍でした。

そんな中追い求めるボールが変わった

若い頃の黒田氏の「目指すボール」

それは「絶対打たれへんボール」だった

その黒田氏がメジャーから8年ぶりに帰り、

取材やインタビューでこう答えている

「100球投げて全部思い通りにできたら、もうやることはない」

2016年シーズン、黒田氏復帰2年目

「去年は8年ぶりに帰ってきて
新しい野球に入っていく気持ちだった」

この年日米通算200勝達成

「あまり意識できてないけど、
それでも記録に対してリスペクトしないといけないし」

2016年9月10日東京ドーム

黒田氏登板の試合で優勝を決める

盟友新井氏涙を流しながらの感動的な抱擁

「夢のようで、出来過ぎだと思います」


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黒田さんは新たな挑戦をするために海を渡った。

メジャーリーグのキャンプインは日本より半月ほど遅い。黒田さんはアメリカに向かう前に広島市民球場で自主トレを行っていた。カープ球団から、オフシーズンのトレーニングに使用しても構わないという申し出があったからだ。

「戦いに行くようなものなので、楽しみというのはあまりない。」

近づけない空気があり

「向こうの野球をやるのだから、向こうのやり方で準備しないといけない」

滑るアメリカのボールや硬いマウンド、言葉の壁など、すべての環境が違う中で、黒田さんはメジャー一年目のシーズンを迎えようとしていた。

筆者は黒田氏の邪魔をしないようにと気を使い、メールも必要最低限にした。シーズン後の帰国時にともにする食事の席は、それはもう貴重な話ばかりだった。メジャーリーガーの体の大きさに驚いた話、地区優勝とはいえついに優勝を経験した喜び、シャンパンファイトの歓喜など。

筆者はオフに黒田氏にインタビュー取材をする担当を任される事になる。インタビューを行ったのは2010年1月。ドジャースでメジャー3年めを迎えるシーズンだった。それまでの2年間は二桁勝利に届いていない。ドジャースとの3年契約の最終年にあたるこの年の決意を、黒田さんは「集大成」と言う言葉で言い表した。

「今シーズンで、もしかすると野球ができなくなるかもしれない」

黒田氏は活躍しドジャースと再契約するのだが、一部でカープ復帰と言う報道も出ていた。

「手を挙げてくれるなら、当然帰ってくるところはひとつしかない」

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2006年オフ

黒田氏はブラウン監督の強い要請により、
肘の検査でアメリカへと渡る

ブラウン監督の人脈から、
診察をしてもらう事も難しい名医に見てもらう

黒田氏は思わぬ決断を迫られる

「先の事を考えて、手術しておいたほうがいい」

簡単な手術ということだったが、
黒田氏にとっては初めての手術で、
慎重になった

2日ほど現地で考え、
アメリカで手術を受ける事となる

全身麻酔で30分ほど、
内視鏡で「ねずみ」という骨のかけらを2つ取り去る

このオフ、
FA騒動で揺れ、
黒田氏の成績にはあまり触れられていなかった
2006年13勝6敗1S防御率1.85投球回189、1/3完投7
個人タイトル最優秀防御率
防御率1点台も快挙だが、
100球前後が交代のメドの起用法で、
完投7は驚異的と言っていい

「ピッチャー心理として
バットに当てられたくないという怖さがあったが、
当てられても内野ゴロを打たせられるというか。
なんかひとつ殻を破れた気がした」

メジャーから戻ってきたときの投球スタイルだと言われているが、
その土台は海を渡る前からある程度確率されていたのだ

プロとしてのキャリアが10年を過ぎ、
30代になった黒田氏は、
ピッチャーとしてさらに一段階上のレベルに到達していた

黒田氏は2007年開幕、
長谷川良平さん以来、
実に50年ぶりとなる5年連続の開幕投手を務める事となる
半世紀を超えるカープの歴史において、
5年連続で開幕投手を努めた投手は、
長谷川良平さんと黒田氏の二人しかいない。

2007年オフ
黒田氏はシーズン終了後、
手術した右肘の再検査のために、
渡米する

「向こうで見てきたワールドシリーズの雰囲気を
この球団で体験できたらと思う」

世界最高峰と言われるアメリカ・メジャーリーグの舞台
黒田氏はFA宣言し、
代理人と契約する
メジャー複数球団からオファーが高い評価で届き、
本格交渉に入る
そしてカープ史上初となるメジャーリーガー誕生が報告される

この時カープファンへの想いを聞かれた黒田氏は、

「もう・・感謝の気持ちでいっぱいです」

メジャーの入団会見
3年契約年俸総額約40億円と言う大型契約
外国人に囲まれて行った会見

「広島東洋カープから来ました黒田博樹です」

アナウンサーである筆者の先輩がこう言う

「広島は黒田博樹を失うのではなく、
どこまでも進化する男の目撃者になるかもしれない」


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2006年の黒田氏のスタートは、背番号に合わせ1月5日
例年より早いスタートは第1回WBCに標準を合わせていたからだった

また監督が外国人のブラウン監督に代わり、
エースに求められるものが大きく変わった年でもあった

「1試合を投げ切る」よりも「1試合でも多くの試合を投げる」
それがエースに対するブラウン監督の要望である
常に先発完投を目指して投げてきた黒田氏にとって、
大きな転機だった

この指導から1週間後、
黒田氏は横浜の「足と歩きの研究所」と言う施設を訪れている
1年で微妙に変化する体型とフォームにぴったり合うスパイクを作るためにここに来た
新たな試みにチャレンジする貪欲な姿勢はこの年も健在だった

例年より10日以上早い仕上がりを目指すこの年、
順調とは言えない調整を続けて何とか形になってきた頃、
福岡ドームで行われた
WBC日本代表と12球団選抜の試合で、
黒田氏は打球を右手に直撃してしまう
黒田氏は日本代表を辞退する

「カープで任されている責任のほうが大きいと思った」

代表離脱と言うアクシデントも乗り越える黒田氏
4年連続開幕投手が決まっていた

「不安でいっぱいですよ。
バットに当たらないボールが投げれれば、
自信はあると思いますけど、
そんなことはあり得ないので」

開幕し、
ブラウン監督の中4日、球数100球と言うスタイルがとられても、
黒田氏は6月までも16登板で4試合の完投を見せる
100球と制限があっても、その制限の中でマウンドに立ち続ける
山本前監督から叩き込まれた
「エースの哲学」
は何ら変わっていなかった

著者の広島テレビアナウンサー森拓磨氏は、
この頃まだ2軍の試合のアナウスをしてテストしている頃
実践を重ねて初めての1軍での試合の実況を、
憧れの黒田氏の登板で迎えると言う運命に出くわす

この試合も黒田氏の好投で勝利する

この試合の実況を見事やりとげた森拓磨氏は、
今まで味わったことのない充実感に満たされる

そして黒田氏との食事に誘われる
「二桁10勝目おめでとうございます。」
と言うと黒田氏は
「おう、お前初実況やったらしいな。お疲れ」
と返したと言う

翌日
倉捕手が近づいてきて
「おいモリタク、これ黒田さんから預かったんやけど」
と言ってボールを差し出す。公式戦のボールだ。
ぐるっとボールを見回すと、黒田氏のサインが。
さらに
「2006・8・3 対ヤクルト」
の文字がある。

「ウイニングボールやて。ちゃんと渡したで」

前日の試合でも女房役としてマスクをかぶっていた倉選手は、
ニコニコ笑いながらロッカーへと下がっていった

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2005年のシーズンに向けた準備は、
2004年の開幕戦で5点のリードを守れなかった時から始まったと言う

黒田氏は自ら電話した
「広島東洋カープの黒田博樹です。雑誌を見て電話しました」

電話した先は東京にある「上達屋」
主に動作解析でスポーツ選手の技能を向上させる施設である。
黒田氏の依頼は
「球持ちを長くしたい」
そらからあらゆる試合の映像を送り、
ピッチングフォームを徹底的に解析してもらった

2004年のシーズンが終わると、
定期的に上達屋のトレーニング施設に通い、
理想的な骨盤の動きを体に覚え込ませるトレーニングを積んだ

メジャーでローテを守れたのも
カープ復帰後41歳まで先発で投げれたのも
解説者が「理にかなった無理のないフォーム」と絶賛するこのフォームのおかげで、
その基本形はこの頃出来上がったのだと思う

徹底的に自分を研ぎ澄まし、
妥協の無い野球人生を送った黒田氏

その黒田氏がテレビ解説者である著者とのやり取りでこんな事があった
その頃若手だった著者は、
黒田氏に先輩に連れられ関係がスタートした時点だった
「おもろいやつ」
と認識され交流が始まったころだ
食事をしている時選手のプロフィールの話になった
出身地や球歴など、
選手名鑑に乗っているような基本情報だ
黒田氏はこういった情報にめっぽう詳しい
「誰と誰が大学の先輩後輩とか、高校で誰と誰が対戦しているとか、そこにもドラマがあるからな」
こういった情報も伝える上では大事な事だと黒田氏は言っていた
そしてこの時は食事の席で、そのプロフィールがクイズになった
どんどんと答えていき、
その後選手の出題範囲がパ・リーグに広がった
すると著者が答えられる確率が圧倒的に低くなった
その時著者は言い訳する
「いや、これパ・リーグの選手ですし」
この言い訳に黒田氏が反応する
「お前、交流戦でしゃべらんの?日本シリーズもあるやんか」
黒田氏は場の空気を悪くしないように優しい表情のままだ。しかし目が真剣なのは明らかだった。
「俺はこれで腕がちぎれてもいいと思って毎試合マウンドに立っている。お前はどれくらいの気持ちで放送席に向かってんの?」

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