東京人の広島カープ応援奮闘記

東京人です。広島を好きになったのは、1986年の日本シリーズ、第1戦引き分けの後広島3連勝、後4連敗で敗戦したあの時です。家族は西武デパートが安売りをするので西武を応援していました。子供だった僕は「赤い方かわいそうじゃん」と思い、心の中で一人カープを応援していました。が、3連勝の後、4連敗。野球に興味のなかった子供でしたが、初めて真剣に見た野球で、怖さと魅力を覚えました。それ以後、野球の大ファンになりました。子供心に、カープが日本一になるまでカープを応援すると決めました。まだ日本一になっていません。もう一生カープファンです。 2連覇しました。僕の目標は広島黄金時代の到来です。毎年優勝争いに絡んで、そして優勝して、日本一になる。 東京人ですが、広島の試合はradikoで毎試合欠かさず聴いてます。テレビ中継があるときはもちろん見るし、毎年10試合近くはチケットを購入し観戦に行きます。 東京人の熱烈広島ファンの奮闘を辿るブログです。

カテゴリ: 本の紹介

2006年オフ

黒田氏はブラウン監督の強い要請により、
肘の検査でアメリカへと渡る

ブラウン監督の人脈から、
診察をしてもらう事も難しい名医に見てもらう

黒田氏は思わぬ決断を迫られる

「先の事を考えて、手術しておいたほうがいい」

簡単な手術ということだったが、
黒田氏にとっては初めての手術で、
慎重になった

2日ほど現地で考え、
アメリカで手術を受ける事となる

全身麻酔で30分ほど、
内視鏡で「ねずみ」という骨のかけらを2つ取り去る

このオフ、
FA騒動で揺れ、
黒田氏の成績にはあまり触れられていなかった
2006年13勝6敗1S防御率1.85投球回189、1/3完投7
個人タイトル最優秀防御率
防御率1点台も快挙だが、
100球前後が交代のメドの起用法で、
完投7は驚異的と言っていい

「ピッチャー心理として
バットに当てられたくないという怖さがあったが、
当てられても内野ゴロを打たせられるというか。
なんかひとつ殻を破れた気がした」

メジャーから戻ってきたときの投球スタイルだと言われているが、
その土台は海を渡る前からある程度確率されていたのだ

プロとしてのキャリアが10年を過ぎ、
30代になった黒田氏は、
ピッチャーとしてさらに一段階上のレベルに到達していた

黒田氏は2007年開幕、
長谷川良平さん以来、
実に50年ぶりとなる5年連続の開幕投手を務める事となる
半世紀を超えるカープの歴史において、
5年連続で開幕投手を努めた投手は、
長谷川良平さんと黒田氏の二人しかいない。

2007年オフ
黒田氏はシーズン終了後、
手術した右肘の再検査のために、
渡米する

「向こうで見てきたワールドシリーズの雰囲気を
この球団で体験できたらと思う」

世界最高峰と言われるアメリカ・メジャーリーグの舞台
黒田氏はFA宣言し、
代理人と契約する
メジャー複数球団からオファーが高い評価で届き、
本格交渉に入る
そしてカープ史上初となるメジャーリーガー誕生が報告される

この時カープファンへの想いを聞かれた黒田氏は、

「もう・・感謝の気持ちでいっぱいです」

メジャーの入団会見
3年契約年俸総額約40億円と言う大型契約
外国人に囲まれて行った会見

「広島東洋カープから来ました黒田博樹です」

アナウンサーである筆者の先輩がこう言う

「広島は黒田博樹を失うのではなく、
どこまでも進化する男の目撃者になるかもしれない」


2006年の黒田氏のスタートは、背番号に合わせ1月5日
例年より早いスタートは第1回WBCに標準を合わせていたからだった

また監督が外国人のブラウン監督に代わり、
エースに求められるものが大きく変わった年でもあった

「1試合を投げ切る」よりも「1試合でも多くの試合を投げる」
それがエースに対するブラウン監督の要望である
常に先発完投を目指して投げてきた黒田氏にとって、
大きな転機だった

この指導から1週間後、
黒田氏は横浜の「足と歩きの研究所」と言う施設を訪れている
1年で微妙に変化する体型とフォームにぴったり合うスパイクを作るためにここに来た
新たな試みにチャレンジする貪欲な姿勢はこの年も健在だった

例年より10日以上早い仕上がりを目指すこの年、
順調とは言えない調整を続けて何とか形になってきた頃、
福岡ドームで行われた
WBC日本代表と12球団選抜の試合で、
黒田氏は打球を右手に直撃してしまう
黒田氏は日本代表を辞退する

「カープで任されている責任のほうが大きいと思った」

代表離脱と言うアクシデントも乗り越える黒田氏
4年連続開幕投手が決まっていた

「不安でいっぱいですよ。
バットに当たらないボールが投げれれば、
自信はあると思いますけど、
そんなことはあり得ないので」

開幕し、
ブラウン監督の中4日、球数100球と言うスタイルがとられても、
黒田氏は6月までも16登板で4試合の完投を見せる
100球と制限があっても、その制限の中でマウンドに立ち続ける
山本前監督から叩き込まれた
「エースの哲学」
は何ら変わっていなかった

著者の広島テレビアナウンサー森拓磨氏は、
この頃まだ2軍の試合のアナウスをしてテストしている頃
実践を重ねて初めての1軍での試合の実況を、
憧れの黒田氏の登板で迎えると言う運命に出くわす

この試合も黒田氏の好投で勝利する

この試合の実況を見事やりとげた森拓磨氏は、
今まで味わったことのない充実感に満たされる

そして黒田氏との食事に誘われる
「二桁10勝目おめでとうございます。」
と言うと黒田氏は
「おう、お前初実況やったらしいな。お疲れ」
と返したと言う

翌日
倉捕手が近づいてきて
「おいモリタク、これ黒田さんから預かったんやけど」
と言ってボールを差し出す。公式戦のボールだ。
ぐるっとボールを見回すと、黒田氏のサインが。
さらに
「2006・8・3 対ヤクルト」
の文字がある。

「ウイニングボールやて。ちゃんと渡したで」

前日の試合でも女房役としてマスクをかぶっていた倉選手は、
ニコニコ笑いながらロッカーへと下がっていった

2005年のシーズンに向けた準備は、
2004年の開幕戦で5点のリードを守れなかった時から始まったと言う

黒田氏は自ら電話した
「広島東洋カープの黒田博樹です。雑誌を見て電話しました」

電話した先は東京にある「上達屋」
主に動作解析でスポーツ選手の技能を向上させる施設である。
黒田氏の依頼は
「球持ちを長くしたい」
そらからあらゆる試合の映像を送り、
ピッチングフォームを徹底的に解析してもらった

2004年のシーズンが終わると、
定期的に上達屋のトレーニング施設に通い、
理想的な骨盤の動きを体に覚え込ませるトレーニングを積んだ

メジャーでローテを守れたのも
カープ復帰後41歳まで先発で投げれたのも
解説者が「理にかなった無理のないフォーム」と絶賛するこのフォームのおかげで、
その基本形はこの頃出来上がったのだと思う

徹底的に自分を研ぎ澄まし、
妥協の無い野球人生を送った黒田氏

その黒田氏がテレビ解説者である著者とのやり取りでこんな事があった
その頃若手だった著者は、
黒田氏に先輩に連れられ関係がスタートした時点だった
「おもろいやつ」
と認識され交流が始まったころだ
食事をしている時選手のプロフィールの話になった
出身地や球歴など、
選手名鑑に乗っているような基本情報だ
黒田氏はこういった情報にめっぽう詳しい
「誰と誰が大学の先輩後輩とか、高校で誰と誰が対戦しているとか、そこにもドラマがあるからな」
こういった情報も伝える上では大事な事だと黒田氏は言っていた
そしてこの時は食事の席で、そのプロフィールがクイズになった
どんどんと答えていき、
その後選手の出題範囲がパ・リーグに広がった
すると著者が答えられる確率が圧倒的に低くなった
その時著者は言い訳する
「いや、これパ・リーグの選手ですし」
この言い訳に黒田氏が反応する
「お前、交流戦でしゃべらんの?日本シリーズもあるやんか」
黒田氏は場の空気を悪くしないように優しい表情のままだ。しかし目が真剣なのは明らかだった。
「俺はこれで腕がちぎれてもいいと思って毎試合マウンドに立っている。お前はどれくらいの気持ちで放送席に向かってんの?」

「開幕からどんどん勝ち星を量産していきたい」

メジャーから復帰した黒田氏の控えめなイメージからすると、
意外な言葉に聞こえるかもしれない。

この強気な発言は、
この時の黒田氏の置かれたエースと言う立場から出たものだ

開幕戦、
5点リードの展開も、
7回途中8失点でまさかの敗戦投手

その後も勝ち星が伸びない。
防御率は5点台付近を彷徨う状況

6月には一軍登録を抹消される
これは春季キャンプからの足の張りををかばい、
それがバランスを崩した結果だと言う

この年初めて調整を一任された黒田氏には、
エースの使命を全うしよう思っていたのだろう

「開幕からどんどん勝ち星を量産していきたい」
と言う思いには、
この年夏に開催されるアテネオリンピックのメンバーに選べれていたと言うこともあるのだろう

結局2004年シーズンは、
勝ち星が一桁に終わる

アテネオリンピックでは中継ぎとは言え、
チーム最多タイの2勝を挙げ、
3試合を投げ自責点0と言う文句なしの活躍を見せる

しかしオリンピックでは中継ぎ

「カープのエースになっても、ジャパンに入ったら、ただのいちピッチャーになった。井の中の蛙になったらアカンと思った。」

黒田氏の凄いところは、
井戸から出るではなく、
その井戸を日本一大きくしようと考えたところだ。

カープを日本一大きな井戸にしようとしたのだ。

この本は広島テレビアナウンサー森拓磨氏が、
黒田氏のそばで見ていた姿を描いた本です。

彼が初めて黒田氏に取材したのが2002年

当時プロ6年目を迎えた黒田氏は、

2001年にプロ初の二桁勝利に続き、

2002年も連続して二桁勝利を上げた

新人アナウンサーだった彼は

覚えなければならない事が山ほどあった

プロ野球の選手との取材する時間なんてほとんど無い

彼が黒田氏と特別な関係になるのはまだ先の話になる

2002年5月24日、

黒田氏は腰痛の影響で一軍登録を外れた後の、

復帰登板を巨人戦で臨んだ

結果は124球13奪三振の完封

ヒーローインタビューで

「ナイスピッチングでした!」

と声をかけられるも、黒田氏は言葉に詰まる

怪我でチームを離れ、その復帰戦で完封した事に、

黒田氏は溢れる思いがあったのだろう

少し時間を置いて、

「・・・はい、良かったです」

と答えるのが精一杯だった

黒田氏は決して多くを語るタイプではないが、

それでも記憶に残る名シーンや名言をいくつも残している。

そこには計算も演出も一切なく、

あるのは黒田博樹という男の生き方だ。

その後も彼は、

黒田氏の感情が溢れ出る瞬間に何度も心を揺さぶられることになる。

黒田氏はこんな言葉を残している

「そりゃ、絶対に打たれへん球投げたいやろ」


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